一見対極にある「拡大」と「縮小」の都市計画。そこには共通して「限られた資源でいかに生き残るか」という冷徹な計算があった


※本記事は2026年2月時点の公表資料を基に構成しています。

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」――マーク・トウェインの言葉とされるこの警句は、日本の都市計画の系譜において、痛烈なリアリティを持って響き渡ります。

時計の針を19世紀末に戻してみましょう。明治の東京、そこにあったのは列強に追いつくための「拡大と成長」の物語でした。翻って、21世紀の北海道・洞爺湖町。そこで現在進行形で起きているのは、人口減少に伴う「縮小と撤退」の物語です。

一見すると、この二つの時代は「アクセル」と「ブレーキ」という対極の関係にあるように見えます。しかしながら、その深層を丁寧に掘り下げていくと、驚くべき共通項が浮かび上がってきます。それは、致命的な「外圧(疫病・グローバル競争)」と「内圧(財政難・人口動態)」の板挟みの中で、極めて限定的なリソースを配分し、最適解を導き出そうとするギリギリの「生存戦略(サバイバル)」に他なりません。

本稿では、明治期の国家プロジェクト「東京市区改正」と、現代北海道の最前線である「公共施設再編・縮退まちづくり」を、一次資料や公的統計に基づき徹底比較します。過去の成功と失敗は、これからの日本が直面する「持続可能な撤退戦」において、どのような道標となるのでしょうか。

1. 近代都市への脱皮:東京市区改正の真実と「第7条」の呪縛

首都に迫る「死」の恐怖:防疫と防火

明治維新後の東京は、江戸幕府の遺産である「城下町」の構造を色濃く残していました。軍事的な防衛機能には優れていたものの、近代国家の首都としては致命的かつ構造的な欠陥を抱えていたのです。

具体的に言えば、当時の東京は「死」と隣り合わせの都市でした。第一の危機は「公衆衛生の崩壊」です。上下水道の未整備は、コレラや赤痢といった水系伝染病の温床となり、明治初期から中期にかけて、東京は度重なる流行に見舞われました。

国立国会図書館の資料等によれば、明治期の東京は衛生環境の悪化を背景に、コレラを含む感染症流行の影響を繰り返し受けたとされています。これは単なる病気の問題ではなく、都市機能の維持に関わる安全保障上の危機でした。

第二の危機は「脆弱な防災機能」です。木造密集市街地は火災に対して極めて脆弱であり、「火事と喧嘩は江戸の華」などと悠長に構えていられる時代ではなくなっていました。銀座大火(明治5年)をはじめとする度重なる火災は、首都機能の麻痺を招き、経済損失は計り知れないものでした。

これらの課題を解決し、日本が西欧列強と肩を並べる「文明国」であることを示すために立案されたのが、「東京市区改正」です。これは単なる道路工事ではなく、国家の威信をかけた巨大プロジェクトでした。

▼ 東京市区改正の中心地(皇居・日比谷周辺)

理想を砕く「予算の壁」:条例第7条の現実

しかしながら、この壮大な計画は、当初から「カネ」という現実的な壁に直面します。その法的根拠となったのが、明治21年(1888年)に公布された「東京市区改正条例(明治21年8月15日勅令第62号)」です。

国立公文書館等のアーカイブによれば、本条例には事業の範囲(道路、橋梁、河渠、下水道等)と共に、厳格な財政規律が盛り込まれていました。特に、事業経費に関する規定(通称「第7条」に関連する予算制約)は、計画の実行に大きな影響を与えました。当時の大蔵省は、インフラ投資による放漫財政を極度に警戒しており、都市計画に対してあらかじめ「キャップ(予算上限)」を嵌める形をとったのです。

これは、現在の企業経営で言えば、ROI(投資対効果)の不確実なプロジェクトに対し、財務部門が強力な支出制限をかけた状態に等しいでしょう。

パリとの決定的相違:美観か実利か

明治の都市計画家たちが範としたのは、フランスのジョルジュ・オスマンによる「パリ改造(1853-1870)」でした。しかし、その実態は大きく異なります。以下の比較表をご覧ください。

比較項目 【理想】パリ改造
(Haussmann’s Paris)
【現実】東京市区改正
(Meiji Tokyo)
主目的 帝国の権威誇示、暴動鎮圧
(見通しの良い大通り)
防疫、火災予防
条約改正への「文明化」アピール
資金調達 巨額の借金と土地投機
開発利益の還流モデル
限定的な国庫補助+受益者負担
条例による厳格な予算上限
実行手法 既存スラムの強制撤去
直線的大通りの貫通
「火災跡地」の利用を優先
既存街路の拡幅が主
結果 石造建築による統一美観
都市構造の根本的変革
不燃化は不徹底(多くは木造)
漸進的なインフラ整備

パリが国家の全財力を投入して都市構造を根本から作り変えたのに対し、東京の市区改正は「財政難」という現実の中で、火災という「災害」を奇貨として利用する(焼けた後に道を広げる)という、極めて実利的な、あるいは冷徹なアプローチをとらざるを得ませんでした。

事業が進むにつれ、物価高騰等により予算不足が顕在化します。都市計画史の研究によれば、委員会は事業の停滞を打破するために「速成(スピードアップ)」に関する建議を行うなど、理想と現実(予算)の狭間で苦闘した記録が残されています。これは、美観や理想を後回しにしてでも、最低限のインフラだけは仕上げなければならないという、現場の実務家たちによる「選択と集中」の決断だったと言えるでしょう。

2. 現代北海道・洞爺湖町の現状と「縮退」の現実

人口半減:デモグラフィーの逆回転

時は流れて21世紀。かつて「開拓」の名の下でフロンティア拡大を続けた北海道は、今や日本で最も急激な人口減少の最前線にあります。その象徴的な事例として、洞爺湖町の現状を見てみましょう。

洞爺湖町(旧虻田町と旧洞爺村が合併)の人口動態は、日本の地方自治体が直面する課題を浮き彫りにしています。国勢調査等のデータに基づき、現在の町域における人口推移を概観すると、以下のようになります。

洞爺湖町域の人口推移イメージ

16,187人
1970年
約1.3万人
1990年
10,500人
2010年
8,245人
2020年
7,743人
2025年

※国勢調査(1970-2020)および住民基本台帳(2025)に基づく

1970年のピーク時には現在の町域換算で1万6千人を超えていた人口は、半世紀を経て半分以下にまで縮小しました。さらに深刻なのはその中身で、高齢化率は40%を超え(平成27年国勢調査等参照)、生産年齢人口の減少が税収の低下に直結しています。

▼ 北海道・洞爺湖町(広域)

現代の「第7条」:財政健全化法という圧力

現代の自治体にとって、明治期の「条例第7条」に匹敵する財政的足枷となっているのが、2007年に施行された「地方公共団体の財政の健全化に関する法律(財政健全化法)」です。

洞爺湖町もまた、過去において厳しい財政状況に直面しました。町の公表資料や議会報告等によれば、健全化判断比率を改善し、将来的な財政危機を回避するために、徹底的な行財政改革が求められました。この法的・環境的制約の下では、新規のハコモノ建設などは極めて困難であり、既存施設の維持管理費(ランニングコスト)の削減が至上命題となります。

象徴的な事例として挙げられるのが、公共施設の統廃合問題です。例えば、町営プールについては、設備の老朽化やろ過装置の不具合等を背景に、維持更新にかかる多額の費用と財政負担を天秤にかけた結果、廃止を含めた検討や計画の前倒しが議論の俎上に載りました(※詳細は町の「公共施設等総合管理計画」や議会だより等の公表資料を参照)。

住民にとって重要なインフラであっても、「財政」という絶対的な定規の前では、その存続が危ぶまれる時代です。明治の東京が「予算がないから作れない」苦しみを味わったとすれば、現代の北海道は「予算がないから直せない(機能停止)」という、より喪失感を伴う痛みに直面しているのです。

3. 比較分析:成長の痛み vs 縮小の痛み

ここで、両者の直面した課題を構造的に比較してみましょう。時代背景は異なりますが、そのメカニズムには明確な対比が見て取れます。

【A】明治〜高度成長期の東京

フェーズ:拡大・成長
急激な人口流入に対し、インフラ供給が追いつかない状態。問題は「不足」にあり、解決策は「建設」でした。

  • 📈 人口:爆発的増加
  • 🚧 ボトルネック:物理的容量の不足
  • 🎯 戦略:供給能力の拡大(ダム、道路)
  • 💡 マインド:「作れば報われる」
【B】現代・縮退期の洞爺湖町

フェーズ:成熟・縮小
人口流出により、過去のインフラが過剰在庫化。問題は「余剰」にあり、解決策は「廃棄・統合」です。

  • 📉 人口:持続的減少
  • 🏚️ ボトルネック:維持管理費(OpEx)
  • ✂️ 戦略:総量抑制、統廃合、複合化
  • 💡 マインド:「減らすことが正義」

東京も直面する「2040年」の縮小局面

特筆すべきは、現在洞爺湖町で起きている現象が、将来の東京の姿を示唆しているという点です。

東京都が公表している「『未来の東京』戦略」等の推計によれば、東京都の総人口は2025年の約1,424万人をピークに減少へ転じ、2040年には約1,384万人、2050年には約1,322万人になると見込まれています。これまで右肩上がりの成長を前提としてきた首都でさえ、今後は本格的な人口減少と超高齢化の波に直面します。

都市の中に空き家や空き地がランダムに発生し、密度が低下する「都市のスポンジ化」は、行政コストの非効率化を招きます。すなわち、洞爺湖町の苦渋の決断は対岸の火事ではありません。これから日本のあらゆる自治体、あるいは大企業の不採算部門で発生する「撤退戦」の先行事例として捉えるべきなのです。

4. 特定地域における可能性:生存のためのパラダイムシフト

しかしながら、悲観ばかりではありません。制約があるからこそ、イノベーションは生まれます。明治の東京が「火災」を契機に近代化したように、現代の洞爺湖町もまた、「縮小」を契機に新たな都市モデルを模索しています。

1. 交流人口という「外貨」の獲得

定住人口(住民税を払う人)が減少する中でインフラを維持するためには、域外からの資金流入、つまり「外貨」が不可欠です。明治日本が条約改正によって国際社会での経済的地位を求めたのと同様に、洞爺湖町は「観光」を生存の生命線と位置づけました。

町や観光協会の統計(令和2年度等を参照)によれば、コロナ禍においても一定の宿泊客数・観光入込客数を維持し、地域経済を支えています。世界ジオパークへの認定や、G8サミット開催の実績を活用し、「世界に選ばれる観光地」としてのブランドを確立すること。これは単なるPR活動ではなく、住民の生活インフラ(水道、道路、病院)を守るための、極めてシビアな経済戦略なのです。

2. 防災を文化にする「逃げる都市計画」

もう一つの可能性は、災害との共生モデルです。有珠山という活火山を抱えるこの地域では、噴火は「避けるべき異常事態」ではなく「周期的に訪れる日常」として捉えられています。

明治の東京が、道路を拡幅して火災の延焼を防ぐ「燃えない街(ハード重視)」を目指したのに対し、洞爺湖町は、噴火しても迅速に避難し命を守る「逃げる街(ソフト重視)」を目指しています。ハザードマップに基づく土地利用規制や、2000年噴火の遺構をあえてそのまま保存・展示する「遺構公園」の整備。これらは、巨額のコンクリート防壁を作るよりも合理的かつ低コストな適応策(Adaptation)です。

「災害リスク」という負の遺産を、「教育・観光資源」という正の資産に転換する。この思考の逆転(レジリエンス思考)こそが、リソースの乏しい地方都市が生き残るための鍵となります。

3. コンパクト+ネットワークの徹底

最後に、空間構造の再編です。総務省や国交省が提唱する「コンパクト・プラス・ネットワーク」構想は、北海道のような広大な土地でこそ真価を発揮します。

全域にまんべんなくサービスを提供するのではなく、洞爺湖温泉地区や虻田本町といった拠点に都市機能を集約(コンパクト化)し、周辺地域とは公共交通やデジタル網で結ぶ(ネットワーク化)。「不便になる」という住民の懸念に対し、行政と住民が対話を通じて「何を捨て、何を守るか」の合意形成を行うプロセスそのものが、これからの民主主義の成熟度を測る試金石となるでしょう。


結論:都市を「畳む」技術への進化

進化論のチャールズ・ダーウィンは言いました。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」と。

明治の東京市区改正は、近代国家として生き残るために都市を「広げる」変化でした。厳しい予算の壁にぶつかりながらも、先人たちは泥臭く街路を切り開きました。
そして今、北海道・洞爺湖町が進めているのは、地域社会を持続させるために都市を適切に「畳む(ダウンサイジングする)」変化です。

人口減少は避けられない現実ですが、それは必ずしも絶望を意味しません。かつての「拡大の夢」を捨て、身の丈に合った筋肉質な都市構造へと再設計すること。そして、観光や防災といった独自の価値を最大化すること。洞爺湖町の挑戦は、これから「縮退」の時代を迎える日本のすべての都市、そして企業にとって、一つの希望ある「解」を示していると言えるでしょう。

我々に求められているのは、現状を嘆くことではなく、限られた資本の中で関係性を再デザインする、戦略的な撤退戦の勇気なのです。


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